岩国市は、山口県の東端に位置し、瀬戸内海に面しています。広島からも近く、観光の楽しみも多い場所です。
岩国市街は、江戸時代に岩国領の城下町として発展しました。錦川にかかる錦帯橋や町屋などが当時のおもかげを残しています。
沿岸部は近代より湾口工業地帯として注目され、西日本では最初に鉄道が走るなど、最先端の発展を重ねました。
作家・宇野千代が生まれ育った場所としても有名で、生家が保存されており一般公開されています。
岩国の文化交流 レンタルスペース
本家森本屋は、岩国に住まう方、岩国を訪れる方のための文化交流スペースです。会合やイベントに時間単位からお使いいただけます。また旅の宿としてもご利用いただけます。
江戸末期築の町屋を、可能な限り当時の工法に倣って再生いたしました。岩国の歴史と江戸時代の雰囲気が感じられる空間で、いつもとは違う一時をお楽しみください。
一棟貸し切りでの滞在。
特徴ある町屋の空間を心ゆくまでお楽しみ下さい。
シェフ仕様のキッチン、
座敷には炉が切ってあり、茶の湯も可能です。
岩国で、いつもとは少し違った時間を過ごしてみませんか?
旬の素材を使って、栄養バランスもよく、子どもたちに人気のメニューを教えてくれる『給食先生の料理教室』。子育て支援センターぽけっと主催で、参加中は小さなお子さんをみていてくださいます。この日のメニューはお揚げに椎茸のだしをきかせた『きつね丼』と『さつまいもサラダ』。お昼ご飯もできて、気分転換にもなるひと時。皆さんの笑顔が印象的でした。
台湾からのお客様がイラスト付きのメッセージを残してくださいました!ロープウェイとハイキングで登る山上の岩国城、特徴がよく捉えられており素敵ですね。ご家族での旅行、岩国滞在を楽しんで頂けた様子で、大変喜ばしく思いました。又のご来訪を心よりお待ちしております。
中庭に面した広間をステージに、手前の座敷を客席として開催されました。
写真の通りとても素敵な雰囲気で開催いただき、ご来場の皆さまも大変お喜びいただけたご様子でした。
子供の頃から、当たり前のように過ごしていた実家の素朴な空間が、尊敬するアレックス・カー氏のコンセプトである『壊してはいけない“眺め”がある』と重なるようになり、父から受け継いだ家を再生し次へつなぐ選択をしました。
岩国市川西にある当家の初代は森本屋孫右衛門といい、お寺の過去帳にルーツを辿ると、孫右衛門の母が享保20年(1716年)9月に亡くなっていることが分かりました。本家森本屋は当時より現在へ続いております。
森本屋は米問屋、味噌・醤油・酒醸造、紙漉き、鮎・川蟹問屋などの商いを生業としてきました。私は孫右衛門から数えて15代目になります。
慶応三年築の建物を遺すため、大工さんは江戸後期の建築を研究し、木材集めから一貫して行い、再生して下さいました。例えば柱は、大型機械の無かった江戸時代の仕事にならい、不均一なもの同士をバランスをとって美しく組み合わせています。日本文化が感じられる町屋の空間をぜひお楽しみ下さい。
むかし、大内義弘が横山や川西の土地を永興寺に寄進し(1386年)横山から川西にかけて広大な永興寺が出来ました。この永興寺は仏法の伝導だけでなく大内氏が東上したり西下したりするときの宿舎になり、また尼子や毛利ににらみをきかす屯所(兵営)にもなりました。当時川西は一寒村で人口はすくなく、産業は農業が中心で米作りや畑作りなどで自給自足の生活をしていました。
吉川氏が岩国に入国したのが1602年、地区割が行はれ、城下町の形態ができてきました。家中、町方、地方に地区割され、家中は藩に出仕し碌により、町方は商工業により(職人として)、地方は農作業によりそれぞれの生計をたてていました。
岩国藩としては、土地の改良や開拓により農産物の生産量は増し石数が上がってきました。しかし川西の耕地がかぎられ、また拡張する余地がすくなく、別表のように微増したのにすぎませんでした。
慶安四年(1651年)281.569石 | 寛文十二年(1672年)284.011石 |
宝永一年(1704年)294.827石 | 享保九年(1724年)291.114石 |
安永二年(1773年)307.975石 | 文化三年(1806年)308.469石 |
天保七年(1836年)309.086石 | 慶応三年(1867年)309.282石 |
慶安四年281.569石のうち、当時の資料から田の方が7割、畑の方が3割と推定できます。従って川西は水田農業が主で畑では麦、栗等が作られまた、野菜を作り城下の需要に当てていました。尚この中に楮高2石3斗があります。これは楮を米に換算すれば、米2石3斗に当たるということです。他の作物も米に換算して石数で表しました。(かりに1石は10斗、米1俵は4斗ですから米俵にすれば2俵半という事です)
農産物は時の流れにより需要品目が変化し、それに応ずるためにいろいろな作物が作られました。棉花、養蚕、楮、櫨、茶、椿油などです。棉花は栽培だけでなく、農家や武家の副業として、製糸や製綿まで行はれました。(昭和30年まで菊元さんの織物工場が川西一丁目にありました)また養蚕や楮なども現金収入を得る貴重な産業でした。川西のところどころで桑の木の古株をみて養蚕の行われていた往時を偲ぶことが出来ます。茶や椿油は自家用として生産し、わずかなものです。
木材については一定の掟があり、それに従って植林し家屋の用材にし、また雑木や間伐材は日常の用具に用いたり薪にして燃料にしました。
昔川西にとって関係の深い産業でした。岩国藩では櫨の実を栽培し実を売ったり、またこれを使って製蝋をはじめました。蝋の製造所を板場といいました。寛政年間(1800年頃)藩は川西の土手沿いの道を降りた4つ角(川西一丁目13番地)辺りにこの板場を設け藩内のすべての櫨の実を集めて加工し、製品を大阪に運送して売りさばきました。藩は現金収入の手段としてこの事業を奨励し、拡張してきました。川西はこの事業に関係していました。
昔の人々は生計を維持し少しでも豊かな生活をする事を求めてあらゆる工夫をし、努力して今日に至りました。
執筆・森本育夫 参考文献・岩国市史上巻P399〜P474
岩国市地域福祉情報ネットワークに向けた記事
海外に出かけて初めて日本の良さがわかります。地方を離れて初めて地方の良さがわかります。
現実からちょっと離れ、古い町屋の異空間に少しでもふれていただけたら嬉しく思います。
床暖房やバス・アメニティも完備しております。ご宿泊時は貸切となり1〜6名様で2室をご利用いただけます。詳細は下記 airbnb のリンク先にてご確認ください。
〈秋冬の服装等のご準備につきまして〉
天井が高く風通しも良い建物ですが、居室には部屋ごとにエアコンと床暖房を完備しており快適にお過ごしいただいております。ご準備は一般的なホテル・旅館へのご宿泊同様にお考えいただいて問題ありません。
当ホームページのお問い合わせから直接ご連絡いただくことも可能です。
玄関側の扉は広く開くことができます。商店だったころの賑わいを想わせます。
長い土間は、玄関から中庭を抜け最奥部まで、行き来できるようになっています。
日本伝統の枯山水に倣ったしつらえの中庭。2024年7月26日には森本屋の新しいシンボルとして若馬の銅像を建てました。地元出身の彫刻家・小川幸造先生(東京造形大学名誉教授)の作品です。
玄関の、日本間への上り框の手前のスペースは“イヤシロチ”にしました。地下1.2mまで良質の竹炭を埋設してあり土壌から空間を清めています。イヤシロチは古来、幸運と健康を招くと伝わっています。日常から非日常へ切替る瞬間をお楽しみください。
昔ながらの暖房器具です。中央の容器に炭を入れて使います。湯を沸かしたり、料理もできます。
昔の井戸をそのまま残しました。子供さんとご一緒に水の汲み上げに挑戦してみてください!
中庭側に8人掛けのテーブルがありダイニングとしてもご利用いただけます。(キッチン仕様は下記)
ミーティング・会食でのドリンクやお弁当のお持込や手配も可能です。お申し込み時にご相談ください。
ご利用 基本料金 (6名) |
時間利用 | 3,300円/時間 |
---|---|---|
半日利用 13:00までの部 / 14:00からの部 |
13,200円 | |
1日利用 | 19,800円 |
設備等 | 収容人数 | 最大30名程度 (用途によります、ご相談ください) |
---|---|---|
什器 | 8人掛けテーブル、10人掛けテーブル | |
キッチン | 業務用仕様の火力の強いガスコンロが1口、卓上コンロのガスバーナー2口、IHが2口、冷凍・冷蔵庫付きコールドテーブル |
岩国の名所・風物のご紹介
岩国市は、山口県の東端に位置し、瀬戸内海に面しています。広島からも近く、観光の楽しみも多い場所です。
岩国市街は、江戸時代に岩国領の城下町として発展しました。錦川にかかる錦帯橋や町屋などが当時のおもかげを残しています。
沿岸部は近代より湾口工業地帯として注目され、西日本では最初に鉄道が走るなど、最先端の発展を重ねました。
作家・宇野千代が生まれ育った場所としても有名で、生家が保存されており一般公開されています。
宇野千代の墓/上段・右下は宇野千代の生家
所在地 〒741-0082 山口県岩国市川西1-19-27
ご利用予定日の1週間前までにご予約いただきますとスムーズです。
メールでご連絡の際には、お名前(団体名)、住居地域、ご連絡先電話番号、利用期間のご希望についてご明記ください。